犬ぞりを引く犬たち

 死ぬかと思った。

 事のはじまりは子どものころに読んだ冒険家・植村直己の伝記だ。極限環境のサバイバルで感じる生の喜び、犬たちとの愛情深いエピソードは美しく、北極圏での犬ぞりに憧れた。だからスヴァールバル諸島への旅で犬ぞりツアーは外せなかった。

 しかし彼の冒険を思えば些細とはいえ、まさかボクもちょっとした冒険をすることになるとは思っていなかった。

犬たちとの出会い

 犬たちがいなければ、凍てつく荒野にとり残されて途方に暮れるかもしれない。ナメられると困る。まずは信頼関係を築いておく必要があった。犬歯をむき出して吠える犬たちに、意を決して近づくところから始めた。

 しかし心配せずとも犬たちは賢かった。向こうも最初から関係性を築くつもりのようで、すり寄ってくるし抱きついてきてすぐになついた。駆け引きや社交辞令がない分人間よりラクかもしれない。

 人とおなじように犬たちにもその日の気分や性格がありおもしろい。ボクのまわりを飛び跳ねる奴もいれば、静かに座って空間を共有するような感覚の持ち主もいる。相手に合わせ対応を変えていく。

 犬種はわからないが、大きさはシベリアンハスキーよりひと回り小さく柴犬のほうが近い。けれども体格はしっかりしていて150kgfの力があるという。単純な力くらべでは負けてしまう。だから前足をハーネスで持ち上げ、1頭ずつ移動させてソリにつないでゆく。それでも後ろ足の力だけで、ボクの身体は簡単に持っていかれてしまった。

犬たちの喧嘩

 犬たちは極寒の地で強制労働させられているのではないかという心配もあったが、大きな間違いだった。早く行こうと言わんばかりに飛び跳ね、ソリは急加速で発進する。

 ソリは二人乗りだった。一人はソリの中に座り悠々と眺望を楽しめた。雪面はなだらかで揺れもすくなく快適な走行だ。スピードは自転車ほどで、真っ白な大地がゆったりと流れていった。変わり映えしない景色も相まって、だんだん眠くなってゆくのだけれど。

 もう一人は後方で立ったままソリを操縦する。最初はサークル同期のやっすんが担当した。出発前に教わった操縦方法は二種類のブレーキだけだ。ひとつは金属製の大きなアイゼン(カギ爪)を勢いよく踏みこんで雪面に突き刺し、ソリを止める。もうひとつはゴム製のシートで、上に体重をのせ地面との摩擦を増やすことで、重みを犬に伝えて減速する。

 では加速や方向の制御はどうするのか? 実際にやってみると加速の指示は必要がなかった。犬たちは走りたくて仕方がないので、ソリは勝手に全速で進んでゆく(だからブレーキは二種類ある……)。方向も指示せずとも、隊列を組むツアーのほかのソリを追って走ってゆく。先頭のツアーガイドのソリがどう方向を制御しているかは、最後まで分からずじまいだった。いざというとき、自分で方向を指示できないのは一抹の不安がある。

 ソリを引くのは6頭の犬たちだ。この6頭には上下関係があり、先頭の1頭が操縦者の指示を汲みとりつつ、リーダーとしてほかの5頭を束ねる。つまり人間と犬のみならず、犬同士のチームワークが重要になる。そしてなぜか小柄で体重の軽いアジア人の我々に当てがわれた犬たちは、気が強くやんちゃな個性派ぞろいに見えた。第3炭鉱で出会ったノルウェー夫婦のソリがまえを走っていたが、犬たちはソリを引くのが大変そうだ。一方でボクらの犬は疲れる様子もなく、注意しないとすぐにまえのソリに追いついてしまう。

 登り坂で突然ソリが止まった。どうやら犬たちをつないでいたロープが絡まり、動けなくなっていた。犬たちは絡まりを解こうと試みるがうまくいかない。観察していると、一頭が勝手な動きをしてほかの犬を苛立たせているように見える。

 1分ほどの険悪な雰囲気のあとリーダーが怒った。強めに吠えたリーダーに、問題の一頭は「やる気か」とでも言うように吠えかえした。わずかな時間で取っ組み合いの喧嘩になり、犬歯をむき出して噛み合った。

 ボクにはあまり危機感がなかったのだが、事情を話したツアーガイドが血相を変えて、事態の重さに気付いた。彼はリーダーの犬を解任し、犬たちの順を入れ替えた。しかしほかの犬も問題の一頭への苛立ちを隠せずまた喧嘩になる。そこそこ大柄なガイドが本気で犬を抱き伏せて叱る姿に驚かされた。人の住まざる大自然で、犬たちも含めチームワークは命がけなのだ。ボクもガイドの指示を受けながら動揺する犬たちを落ち着かせ、彼は並び順を試行錯誤し、ようやく喧嘩を収めた。

 しばらく行った先にある氷窟で昼食とした。そのとき1頭の犬の血が雪面に跡を付けていた。解任されたリーダーであろう犬は落ちこみ、食事をとらなかった。

ホッキョクグマの生息域であやうく遭難しかけた

 氷窟を出ると外は地吹雪になっていた。すでに犬たちはやんちゃだとわかっていたし、強風でガイドのソリまで声が届きそうもなく、視界も悪い。帰路はボクの操縦だが、この状況で犬たちとのコミュニケーション方法がブレーキだけなのは心許ない。そこで教わってはいなかったが、勝手に犬たちに声をかけてみることにした。

 進むときは「Go!」、減速させるときは「Slowly」、止まるときは「Stop!」、それらの指示を犬たちが忠実に守ってくれたときには「OK, Good!」という具合だ。いざというときに掛け声を覚えていて従ってくれたら助かる。

 憂慮すべき事態はすぐにやってきた。先頭の1頭が急に右折を試み、ほかの犬たちもつられて右に曲がりだした。その視線の先には野生のトナカイがいた。この地域ではあちらこちらでトナカイを見かける。犬たちが毎回気をとられるようではたまらない。急いでソリを止めて叱り、軌道修正すると「Good!」と声をかけた。しかし方向は戻ったものの隊列には戻れず、その右側を並走する形となった。

 その後も岩肌に気をとられたり、ロープが絡まったりして立ち止まり、そのたびに「Go!」の指示で事なきを得た。掛け声の効果は大きかった。だが隊列からは徐々に離れていく。

 途中でガイドが隊列を止めボクらのソリまで歩いてきて、ロープを引いて犬たちの進む方向を変えようと試みた。けれどもうまくいかず、なぜか犬たちは方向を元に戻してしまう。

 隊列はどんどん小さくなり、しまいには点々になってしまった。試しに「Left!」と言ってみたが、もちろん犬たちには伝わらない。穏やかになっていた地吹雪は激しくなり、とうとう隊列の淡い点さえ見え隠れするようになった。景色も見えず、周囲の雪面はどこも白い闇のなかに吸い込まれている。

 命の危険を感じる。最悪の事態、つまり遭難を想定した。

 地吹雪が収まり夜になれば、U字谷沿いを進みロングイェールビーンの街明かりを見出だせるかもしれない。だが地吹雪が収まらなければ夜を越す必要がある。この寒さと強風では、岩陰に身を潜めてももって一晩だろう。

 そしてここは人ではなくホッキョクグマの生息域だ。そのためスヴァールバル諸島では、街から離れる際に一人以上の銃の携帯が義務付けられている。いま銃を持っているのはガイドなので、ボクらは丸腰だ。そうなるとやはり犬たちとのチームが生命線になる。

 不思議と怖さはなく冷静だった。このころには掛け声でのコミュニケーションもあり、犬たちとの信頼関係を感じはじめていた。むしろ勇気づけられている気がする。犬たちも左へ向かう指示を理解しているように見えたが、すべての犬が連携して動かなくては難しい。これは人と犬だけでない、犬同士のチームプレーの問題だ。ボクには解決できないので、リーダーの犬を信じて任せるしかなかった。

 リーダーのまとめ方が上手かったのか、地吹雪が弱まり犬たちが隊列を見出したのか――最終的に犬たちは左折に成功し、隊列に合流できた。ガイドからは「ロストするかと思った……」と安堵した表情で言われた。

 リーダーの犬とは以心伝心できる感覚が生まれていた。アイコンタクトで、「これでいい?」という確認や「出発しよう」という催促がわかる。こちらも頷いたりOKと答える。コミュニケーションの頻度も増え、意図を汲みとってくれるので操縦しやすく、安心して犬たちに任せられるようになった。

 それでも個性の強いメンツだったことは否めない。街のそばまで来ると、懲りずに隊列を離脱し帰路のショートカットを試みてきた。このときは叱りつつも犬たちに進路を委ねた。勝手な行動ではあるが、ボクも賢さゆえの選択だと理解できるようになっていた。互いに意見を主張しつつ対等な力関係と信頼ができあがり、まるで古くからの友人といるかのようだった。

 出発地に戻り、犬たちをソリからはずしているとき、一頭がしきりにすり寄ってきた。おそらく往路のリーダーであり、喧嘩の一件を謝っていたのだと思う。ボクにはしっかり関係を構築できた証拠のように思え、すこし嬉しくなった。