
「悩んだら土に触れるといい」
南アフリカの文化人類学の教授はそう言ったという。就活に悩み悶々とするボクを見て、ケープタウンにいる知人Rがまじめに教えてくれた。たぶん「思い詰めたら原始的体験でも通して、一度無心になってみろ」という意味ではないかと思う。
では無心になれる原始的体験って何だろうと考えてみると、地学好きのボクなら、やはりジオい(地球を体感できる)ところへ出かけるのがよいのではないか。自然への畏怖を感じとりにゆくのだ。そうだ、久々に火山でも見に行こう。
Rのアドバイスを追い風に、八丈島行きの船に乗りこんだ。東京から南へ290km、伊豆諸島の火山島だ。
本当は二重カルデラで有名な青ヶ島を目指したが、船が欠航してたどり着けなかったのは、また別の話。
八丈富士の火口
身体にかかる不規則なGで目が覚めた。何かにつかまらないと立てない。甲板に上がってみると、水平線に浮かぶ木星と朧月が上下に行ったり来たりして、かなり海が時化ていることがわかった。
船内放送で朝食サービスの案内が流れたが、船酔いで朝食どころではない。一応レストランに行ってみたけれど誰もいない。10時間の船旅を乗りきり、八丈島に上陸したころにはすでに疲弊していた。そして乗換予定だった青ヶ島行きの船の欠航を知った。
八丈島はふたつの火山、八丈富士(西山)と三原山(東山)がくっついてできている。三原山も地質がおもしろそうだが、今回ボクは八丈富士に向かった。その名からもわかるとおり、富士山のように均整のとれた成層火山である。直近では17世紀に噴火している(地学スケールで見ればわりと最近)。
お目当ては、足元に広がる太平洋を望みながら、山頂にある火口の縁を歩いて一周する「お鉢巡り」だった。雄大な景色を眺めれば、就活の悩みを些細に感じられるかもしれない。
ところが実際に八丈島に着いてみると、あいにくの天気で、港から見ても流れる雲に山頂は隠れていた。きれいな景色は望めそうもない。当然ながら、この時点で登らない選択をするのが賢明だったと思う。しかし登ったら偶然雲が消えたりしないだろうか、とワンチャンを期待した。
登山口まではレンタカーで、そこからは歩いて登る。雲に包まれ、上も下も真っ白で何も見えない。登山道には階段が整備されており、標高こそ高いものの火口の縁に達するまでは登りやすい。しかしコロナ禍のオンライン就活で家に引きこもっていたボクは、運動不足がたたり足が棒になった。観光地と侮るなかれ、思った以上にしっかり登山である。歩きやすい靴、気温差を考えた服装、食料と飲み物の持参は必須だ。
霧がどんどん濃くなっていき、しまいには10m先も見えなくなった。先ほどまで時化た海で船酔いと対峙し、今度は霧の中をひたすら登る。八丈島まで来て、なぜこんな苦行を味わっているのだろう……。いったい俺は何をしているんだ?

1時間ほど歩いて、火口の縁までやって来た。楽しみにしていた景色はなかった。それどころか火口の底から台風並みの強風が吹き上げている。すこし周辺を散策してみたが稜線には遮るものがなく、船の甲板につづきまたもや立っているのさえ難しい。岩に隠れて風をやりすごしていると、期待したほどではないにしろ、時折チャンスが訪れた。
風が雲を払うわずかな間、火口の大きさと深さを実感する。内部には火口丘も見え、教科書に載っているような典型的な火山の形をしていることがわかった。

ひとり「おおっ」と寂しく声をあげると、すぐにまた視界が閉ざされ、暴風が襲ってきて岩にしがみつく。昨夜の船旅の疲れで体力も限界に近づき、お鉢巡りなどできるはずもない。自然はボクに容赦せず、慈悲もない。命の危険を感じたボクは早々に撤退を決めた。就活に悩む自分はなんとちっぽけなのだろう。「悩んだら土に触れるといい」とはこういうことか……。くれぐれも読者の皆さまにおかれましては、無理のない登山をされたし。
後日、下山中に中腹から撮った写真を見ていて、火口から4kmほど離れた眼下の空港のそばに2つの丘を見つけた。八丈富士の噴出物が積もってできたスコリア丘らしい。あそこまで岩石が飛ぶのか ―― 知識としては知っていても、実際に見ると噴火というのは恐ろしい。
南原千畳敷の溶岩台地
ふもとへ下りると、真っ黒な玄武岩の溶岩台地「南原千畳敷」が広がっている。3,000~1,000年前に八丈富士から流れ出た大量の溶岩流がつくったという。見渡すかぎり荒涼としていて、アア溶岩から縄状溶岩、柱状節理、褶曲のような構造まで、さまざまな地形を観察できる。溶岩が流れていたころを想像して眺めるとたまらない。



海の向こうには、南原千畳敷よりもまえの噴火でできた火山島、八丈小島も見えた。
島をつくり、山をつくり、足元に広がる溶岩台地をいとも簡単につくってしまう。地球の威力を想像すると凄まじい。知識としては持っていても、改めてフィールドに出て体感するとわかっていなかったような気がする。自然への畏怖を感じるにはもう十分だった。