もうtwitterをはじめて3年になるらしい。人のつぶやきを見るのが好きだ。誰かに共感したり和んだり、ときには怒ったり考えたり。世界と、誰かと、ネットの海を超えて繋がっている感覚に満足する。

 けれどここに少しだけ、前向きな理由で、twitterから積極的に遠ざかることにした経緯を話してみたい。

コロナとアニメと小説と

 風や、日光や緑が恋しい。もう100日以上、極力外へ出ることなく、空気の淀んだ六畳ほどの自室に籠もっている。新型コロナウイルス「COVID-19」の感染拡大により、大学の講義や研究室の会議はすべてオンラインで行われる。「緊急事態宣言」という、現実離れした言葉がニュースに流れる。せっかく定期券を更新したのに、駅のホームは遠い過去のものになった。

 最後に人と会ったのはいつだろう。ボクはひとりの時間も好むが、それは本当にひとりの状況でない場合だった、と思い知らされる。「誰もひとりでは生きられない」という歌詞に納得する。誰かと会ってしょうもない話を聞き、生産性のない返事を返したい。

 人とつながる感覚を求めて、外出自粛の初期はSNSにかじりついた。twitterのタイムラインをくまなく辿り、意味もなくfacebookやLINEのアプリを開く。たくさんの人をフォローしているにもかかわらず、すぐに見覚えのある投稿まで到達する。暇人というわけではなく、誰とも会わない生活ではそういう衝動に駆られる。

 タイムライン漂流に飽きてしまうと、アニメを観るようになった。これまでよく見ていたのはSFやアクション系だった。今はこういう時期だからか、日常の出来事を描いた文芸的な作品を選び、ホッとする。ほぼ触れてこなかったラブコメや恋愛モノにまで手を出した。そのうちアニメだけでなく、小説を読む楽しさに目覚め、あれほど身につかなかった読書習慣が自然とできあがっている。

 そんな生活をして80日ほど経つと、これまでの自分の、人との接し方に疑問を感じ始めた。

その記憶は濃いか

 アニメを観ていると不思議なことに、たいていの主人公はSNSをやっていない。出てきてもせいぜいLINEで、日常的にtwitterを使う登場人物は見かけない。なぜだろう。

 数日ほどして出てきたボクの答えは、登場人物一人ひとりの関係をもとに、物語が紡がれていくから。話の軸となるのは常に一対一の関係。それがいくつも複雑に重なり、絡み合い、各々の心情に変化が現れて、物語は動きだす。源氏物語の時代からストーリーをつくる基本だろうし、実世界でも同じだと思う。

 その点を意識して、SNSの立ち位置を考えてみる。SNSにもいろいろある。LINEの特徴は、メールのように一対一で、メッセージを送りあうところにある。一方、Instagramやtwitterは不特定多数を相手にする。いわば掲示板や発表会であり、書籍、Webサイトにも似ている。こういうタイプのSNSは、一対一の関係から少し離れているので、物語で頻繁に登場させるのは難しいのかもしれない。

 さて唐突だが、なにか懐かしい記憶を思い出すことにしよう。どんな思い出でも構わない。近頃コロナで人と会っていないためか、よく昔を振り返るようになった。部活やサークル、友達と行った旅行での何気ないやりとり、クラスメイトとの昼食―――こうして思い浮かべることのほとんどは、なぜか人と接しているときの出来事だ。SNSはあまり登場しない。twitterも楽しいけれど、懐かしいという感覚は起こらないらしく、思い出と呼ぶには無理のある気がする。

 人と接した記憶は濃い。そうした記憶に残る、一対一の関係から物語は進みだす。

 ボクは人とつながるためにSNSを使っていたはずだった。しかし、実はSNSを使ってもつながる効果は感じにくく、むしろ阻んでいるような気さえし始めた。

一輪の朝顔

 では、なぜ人と接した記憶は濃いのだろう。物語を見たり読んだりしているうちに、ひとつの仮説に辿り着いた。

 好きな日本史の逸話に、「一輪の朝顔」がある。安土桃山時代の茶人、千利休の話だ。

 千利休の屋敷には、たくさんの朝顔が花をつけていた。話を聞いた豊臣秀吉は、朝顔を目当てに利休宅を訪ねた。ところが、すべて刈り取られ花はない。どうしたものかと驚きつつ、案内されて茶室に入ると、そこに美しい朝顔の花が一輪だけ飾られていた。

 この話は利休の侘び寂びの美意識を象徴している。たくさんの花ではなく、一輪しかない花の儚さ、それをじっと眺める時間の良さに、美を見出しているように思う。人間らしさを感じさせてくれる。

 人との接し方もこれに通ずるものがある、というのがボクの仮説だ。つまり、たくさんの人といつも話すのではなく、たまに会って一対一で話すから、人とのつながりや記憶が濃くなるのではないか。

 もう長い間、SNSでずっと誰かとつながっているから、昔の感覚を忘れてしまった。毎日タイムラインを開く癖がつき、半ば強制的に誰かの投稿が流れてくる。それらに目を通しながら「いいね!」やコメントをしていく。もちろん、何かを感じて反応しているのだけれど、当たり前のルーティンになっている。

 そういう日常では「どうしてるかなぁ」と、ぼんやり誰かを想うことがない。自分から気にして、様子を知ろうとすることもない。本当は少したそがれて、思い浮かべる時間が欲しい。SNSで細かく近況を公開し見せ合うのは、コミュニケーションを薄くしているのかもしれない。

 当然のことだが、なにも友人の考えや日常を隅々まで知ったり、自分のことを知らせたりする必要はないのである。言葉がそのまま心情を表しているとも限らない。そうした投稿ばかりを追うのではなく、会ったときの断片的な記憶を頼りに、推測も含めて相手のことを考えるほうが、よほど人の関係を濃いものにしてくれている感覚がある。何事もバランスが大事と言うように、実は余白が重要な気がしている。

 twitterはおもしろい。気の合う人や趣味の同じ人を探し、尊敬する人の言葉を追いかけてきた。この3年でいろいろな人とつながり、話し、実際に会った方もいる。twitterを通じて世界が広がり、新しい視点を得たことは間違いない。だから、twitterやSNSを完全にやめようとは思わない。けれど少し使い途を考えて、離れてみるのもよいかもしれない。

 コロナ禍に、人とのつながりを見直したい。