西日に照らされ林立する香港のビル群

変わった香港、変わらない香港


 7~12歳(2006~2011年)まで、ボクは国際都市・香港で育った。幼すぎず大人でもない、価値観の土台が形作られるこの時期に、当時の香港にいられたことは大変な幸運だったように思う。目にした景色や匂い、お世話になった人たちとのやりとりを、いまも鮮明に記憶している。

 次に香港へ帰ったとき、ボクは25歳になっていた。それまでの10年あまりは香港にとって激動の時代だった。ボクもニュースやSNS、現地の知人を通して話は聞いていた。しかし実際に見て体感することと人づてに聞くことは、本質的に異なる。ボクの知る香港は、子どものころから時を止めていた。

 13年前の記憶を保存したまま、ボクは香港へ飛んだ。街を歩き、記憶といまを比べてまわった。変わったこと、変わらないもの ―― ここでは私的なオピニオンを挟むことなく、観察結果と体感を客観的に記録しようと思う。

~ 香港の歴史 ~

 背景として香港の歴史をかいつまんで抑えておくと、幾分か読みやすくなると思う。

 1839年、麻薬のアヘンを密輸出する大英帝国(現イギリス)と禁輸に動いた清(現中国)とのあいだで、アヘン戦争がおこる。勝利した大英帝国は香港を植民地とした(江戸幕府がこの清の敗北に恐れをなし、のちに日本の開国の一因となった)。以来大日本帝国に占領された第二次世界大戦を除き、150年以上にわたってイギリスが香港を統治する。

 1949年、中国本土では、国民党との内戦に勝利した中国共産党が中華人民共和国を建国する。イギリス領である香港には、中国本土の民主派や飢饉に飢えた住民などが押し寄せるようになり、人口が急増していく。その際イギリスはレッセフェール(自由放任主義)に徹していたため、“何でもあり”とも評される、市民の自由闊達な資本主義経済が生まれた。こうして香港はアジアにおける製造業、流通、金融の一大拠点となり、ビジネスのため世界中から人が集まる国際都市へと発展した。同時に、19世紀から独特の環境・文化を営んできた香港市民としてのアンデンティティも育まれた。

 1997年、イギリスが最後の植民地であった香港を中国に返還し、大英帝国は終焉を迎える。このとき中国は、2047年までの半世紀のあいだ、香港で社会主義政策を行わず高度な自治を認める「一国二制度」を掲げた。その10年後、ボクは香港に移り住んだ。この頃の香港はまさしく人種のるつぼでありつつ、ゆるい一体感を感じられる独自のグローバルな雰囲気が広がっていた。そしてボクが帰国したころ、著しい経済発展を遂げた中国は、中央政府が全土の統一と一体化を推し進める。これに対し香港では何度も大きなデモが行われた。しかし2020年に全国人民代表大会で香港国家安全維持法が可決、施行されると、そうした声は下火になり、ほぼすべての活動団体が解散した。

 この法律は香港の安全を脅かす声を取り締まり、中央が逮捕や裁判を引き継ぐことができる。またその対象は香港市民にとどまらず、香港の外にいる市民や外国人にも適用されると記されている。

目に見える経済発展

 香港の変化は、到着早々目に見えてわかった。

 飛行機の窓から夜の海上に見慣れない人工島や橋が見えていた。珠江デルタの対岸にある珠海市とマカオとを結ぶ、世界最長の海上橋「港珠澳大橋」が完成していた。空港には鉄道が通り、初めて見る高架道路が何本も延びる。緑が生い茂るハイキングコースのイメージだったランタオ島には、大きなショッピングモールやバスターミナル、高層マンション群が建ち、知らない街が複数生まれているようだった。それはマカオもおなじで、旧市街に隣接して各所で埋立てや区画整備、建設工事が進んでいる。そして以前から所狭しと建物が林立していたビクトリア・ハーバーの一帯には、さらに輪をかけて縦に長く、隙間を埋めるように新しい高層ビルが建った。

 わずか13年でこうも景色が様変わりするものだろうか。街がすこし変わるというのならばともかく、新しい街がいくつもでき、それらが古い街とつながり、おなじ場所なのにまるで異なる景色が生まれている。経済と物量の圧倒によって未来を感じる体験は、久々の感覚だった。

社会の変容、構造の不変容

構造の不変容

 見慣れない景色があるいっぽうで、見慣れた光景もあった。そのひとつが中環(セントラル)市街の路上に集まるアマさんたちである。

 アマさんというのは住込みで働く家政婦のことで、フィリピンなど東南アジアから出稼ぎに来ている女性を指す。日本では富裕層が雇うイメージの家政婦だが、香港では一般家庭でもごくふつうに雇う。日本人にも雇う人がいて、子どものころ近所宅のアマさんにお世話になることもあった。

 各家庭の契約にもよるが、彼女たちは家の人が働きに出るあいだ、家事や炊事、子どもの送り迎えに遊びや勉強の付き合いまで、一通りのことをこなす。そして週に一度の休日である日曜日になると、段ボールや私物を持って街にくり出し、路上はアマさんで溢れる。休日に家族でゆっくり過ごしたい雇い主は勤務時間外のアマさんを家から出し、アマさんのほうも仕事から開放されて友人たちと話を咲かせていると聞く。しかし母国の家族に仕送りがあるアマさんたちは、涼しい場所でショッピングというわけにもいかず、路上に段ボールを敷いて休息のひとときを過ごすのである。

 双方にとってWin-Winな契約で合理的だし、なかにはアマさんを家族の一員として接する温かい家庭もあるのだろう。しかし感謝の言葉もなく蔑ろに扱われるアマさんもボクは見た。ボクの家にも既設されていたアマさん向けの住込み部屋は、窓もなくクローゼットくらいのサイズしかなかった。おなじ人間なのに……経済格差が生み出した社会構造の不平等さに、子どもながらどうにかならないものかと胸を痛めたものである。

 13年がたち、日曜日の中環には、いまも変わらず路上に集うアマさんたちの姿があった。

中国本土の影響の拡大

 発展した香港の街にもすこし慣れると、以前は見かけなかったものが目に映る。

 ダブルデッカー(2階建てバス)の側面に、香港のとなりの都市・深圳の歯医者や、中国の砕氷船「雪龍2」の広告が貼られている。以前の香港では、香港域外の広告を見ることはまずなかったように思う。

 ビクトリア・ピークから100万ドルの夜景を眺めてみれば、中国資本と思われるビルの増加に驚く。なかには中国国旗を壁面の電光掲示に映すビルもある。かつては記念日や運動会くらいしか、中国国旗を見る機会はなかった気がする。

 電車の路線図を見ると、新しい路線がいくつもでき、中国本土と結ぶ線も増えている。子どものころよく使ったそのひとつに乗ると、ガラ空きだった昔とちがい、平日の昼間からかなり混み合っている。ボクは大きな駅で降りたが、混雑が解消されることなく深圳方面へ走っていった。

 公共の場で流れる案内音声にも驚いた。北京語が含まれている。香港は中国南部の広東省に位置し、よく聞こえてくるのは方言の広東語である。いっぽう北京では、標準語である北京語が話される。両者は発音もイントネーションも明らかに異なり、どちらも話せないボクが聞いてもちがいはわかる。

 北京語の音声が流れている理由はすぐにわかった。以前より観光ツアー客をよく見かけ、そのほとんどが北京語を話している。

 アベニュー・オブ・スターズを歩いていると、北京語で話しかけられた。ひとり旅の観光客らしい。スマホの画を見せながら、おなじ構図で記念写真を撮ってほしいと頼まれた。中国本土で香港が舞台のドラマでも流れているのだろうか。中央が推し進める一体化の一端かもしれない。英語に切り替えて快く引き受け、ポーズ調整を指示しながら写真を撮った。彼は「来年、東京にも旅行に行くんだ」と楽しそうに語った。

 かつての自分の生活圏にも変化が現れていた。通塾でほぼ毎日歩いていた紅磡(ホンハム)駅の通路には、「総体国家安全観」10周年のポスターが掲げられていた。「総体国家安全観」とは、中央の習近平政権が2014年に提唱した概念だ。従来の軍事中心のみならず、政治、国土、経済、金融、文化、社会、科学技術、サイバー等々、幅広い分野へ安全保障の範囲や手段を広げる。その一貫として、スパイ行為の通報などが市民に奨励されているという。

 13年前、街なかで見る宣伝といえばビジネスであり、中央や政府による広告を見た記憶はない。「総体国家安全観」10周年のポスターは紅磡駅だけでなく、ネイザン・ロードやほかの駅、街の方々で数多く並んでいた。一体化の推進を直接感じた。

 紅磡(ホンハム)駅の近くには、子どものころ通り抜けしていた香港理工大学がある。若者たちが集まり、静かながらおしゃれで活気のある雰囲気を気に入っていた。通ろうとすると、正門に警備のゲートができ、学生と関係者しか立ち入れなくなっていた。

 この場所では2019年、籠城したデモ隊に対し警察が逮捕のため包囲戦を展開。数日にわたってデモ隊と警察の激しい攻防がおこった。慣れ親しんだ場所が『戦場』と報道される事態に、当時のボクは夜な夜なSNSに張りつき、リアルタイムに情報を追いかけた。

 ゲートの設置以外は、13年前と変わらず静かに見える。アジア有数の名門大学をまえに、北京語を話す観光客が記念写真を撮っていた。

社会の変容

 数日も過ごすと、より客観的でマクロな違和感が気になってくる。街を歩くと、ところどころ変化した部分はあっても、変わらない表向きの見た目に懐かしさを覚えることも多い。けれども社会の気質というべきか、雰囲気が昔とはちがう気がする。

 たとえば尖沙咀(チムサーツイ)や紅磡(ホンハム)は、人がすくない気がする。道端で立ち話をする人もあまり見かけず、人々は静かに行き交う。以前は、ひっきりなしに話し声や笑い声が聞こえ、街で初見の人と軽く言葉を交わすことも珍しくなかった。

 道行く人の人種も中華系から東南アジア、イスラム系や欧米に至るまで多種多様だったが、いまはほぼ中華系に見える。かつては街を歩けば広東語、英語、フィリピン語が飛び交っていた。それが外国人の増えた昨今の日本と大差なく見える。

 日本人の知人たちと再会し聞いてみると、外国人が減っているのは間違いないらしい。日本人学校の小学1年生は、13年前のざっと3分の1しかいない。ボクが住んでいた地域には、もはや日本人は住んでいないだろうと言う。「変わったよね?」当人たちはすこし落ち込んだ様子で話した。

 子どものころ、ブロックや饅頭を買い歩いた旺角の女人街に、昼と夜の二度行ってみた。ビジュアルは当時のまま、いまでも露店が立ちならぶ。しかし、前に進むのも一苦労だった以前とくらべ、買い物をする人はすくなく、通りの向こうまで見通せてしまう。困るほど多かった客引きも、今回は一度きり。そして並んでいる商品も、趣向を凝らした物が減り、別の店でも売っているおなじ物が目につく。値切りに勤しんだかつての露店の活気は薄い。どうも形式ばかりで、内実が失われてしまったのだろうか。

 これらの変化を感じるのは、ボクが大人になったからか、訪れたタイミングか。それともコロナ禍の影響、あるいは、やはり社会の本質が変わったのだろうか……。騒がしくも人々の朗らかで温かい記憶とは、一線を画している。香港ならではの、人々のエネルギーの爆発を感じるようなこともなかった。

 この感覚には覚えがある。香港から日本に帰国し、逆カルチャーショックを受けたときの感触だ。2019年、来日したローマ教皇フランシスコは、日本社会の印象を「効率性と秩序によって特徴づけられる」と評した。熱量、活気、グローバル性に推された香港と比して、ボクも日本におなじ印象を抱いた。秩序だっており、その裏返しとしてなんとなく閉塞感のようなものも感じる(これはそれぞれの社会と文化が積み上げてきた特徴であり、利点と欠点がある)。

 街なかをパトロールする警察官(あるいは軍人か)とすれちがい、ライフル銃を肩にかけた姿に驚いて二度見した。そうした姿を香港の街で見かけたのは初めてだった。以前より秩序だった空気を感じる。

 いっぽう以前ほどではないにしろ、東南アジアの人々に通ずるような、温和な空気がなくなったわけでもない。13年前にお世話になった人に再会すると「これが香港の飲茶(ヤムチャ)文化だ!」と言ってごちそうしてくれた。夕食を控えているのに、次から次へと運ばれてくる料理。少食のボクは Enough と言って止めつつ(笑)、手厚いもてなしに感動していた。このホスピタリティは見習いたい。

これからも香港を見つめつづけたい

「香港は人の性格を変える」

 一緒に訪れた友人のHはそう感想を答えた。アメリカや韓国を訪れたことのあるHは、初めて訪れた香港をほかの国とは異なると捉えたらしい。どのあたりが彼に刺さったのかはわからないが、「国際都市だから」と話していた。

 ボクは過去と現在のちがいに目が行き、香港の変化を感じがちだ。しかしいまなおグローバルな多様性がそれなりにあり、ところどころ人々の熱っぽい雰囲気が見受けられる街に、Hは国際都市としての片鱗を感じたのかもしれない。そしてその雰囲気は人の性格を変える。

 学生のころ、中国の友人に「アローはふつうの日本人とちょっとちがう」と評されたことがあった。近年ボクにもその自覚が芽生えてきている。どんな人種・言語の人とも身構えずコミュニケーションをとるし、自由についてこだわりがある。インドア派だが、わりと深い内容の積極的な意見交換を好む。この性格はどこから生まれたのだろう。帰国子女だからと思っていたが、どうも腑に落ちなかった。

 Hの言葉を聞いて納得がいった。この性格は、グローバルな多様性と一体感があり、自由闊達な国際都市・香港にいたからこそ、得られたものなのかもしれない。

 就活で出身を聞かれ困った。生まれは奈良だが住んだことはないし、東京も地元という感じはない。かといって香港と言うのは、格好つけていると思われそうで憚られた。しかし悩んだ末、ボクが形作られた場所という意味をこめて、いまでは香港出身と言うことにしている。あのころ香港で育まれたアイデンティティが、ボクの中に生きている。

 香港がどう変わっていくのかはわからないが、これからも故郷・香港を見つめつづけていきたい。